もえさが解決録

霊感を磨く四国巡礼の旅

Jyunrei

皆さんは「お遍路さん」という言葉をご存知ですか。全国各地にさまざまな霊場がありますが、とくに四国八十八カ所を巡ることを「遍路」といい、その巡礼者を「お遍路さん」と呼ぶのです。昔から別格の霊場巡りとして多くの巡礼者を集めてきました。一日30km歩いても40日以上かかるその道のりは、まさに現代の苦行といえるでしょう。私ども、もえさがの霊能者の多くは、このお遍路による修行を何度も繰り返し、霊感を磨いて参りました。

この度は、皆様が知っているようで知らない四国遍路の歴史と巡礼修行について、お話しさせていただきたいと思います。お遍路は、単に修行のみならず、ご自分の来し方、行く末を考えるよい機会ともなります。ぜひ皆様にも一生のうちに一度は巡っていただきたいものです。

遍路の歴史

平安時代末期に編さんされました「今昔物語」に、当時の僧が、四国の海岸沿いの難所を歩いて修行した、という記述がみられます。この修行が四国遍路のルーツと言われています。もともとこの修行は、海の彼方にあるとされた神道上の生命の根源地、「根の国」への信仰に根ざしていたと考えられています。今昔物語ではこの海岸沿いの道を「辺地」とあらわし、梁塵秘抄では「辺路」と表現しています。そしてこの言葉が、遍路に変化したのではないかと言われています。

「根の国」信仰は、仏教が拡大するにつれ、海の彼方にあるとされた補陀落浄土(ふだらくじょうど)への信仰と重なるようになり、海岸巡りの荒行は、仏教的な修行として確立していきました。補陀落浄土信仰は、渡海信仰とも言われ、多くの僧侶が補陀落浄土へ渡ることを信じて、生きたまま箱に入って小舟に乗り、死出の旅へと発ったのです。補陀落信仰は、熊野で始まり、熊野の修験者が土佐に渡って海岸難所の修行をする中で、四国へもたらされました。土佐の足摺岬や室戸岬からも補陀落渡海がおこなわれたという記録があります。

遍路の歴史イメージ

この補陀落渡海は、戦国時代あたりまで実際におこなわれていましたが、その後は海岸巡りの修行そのものが補陀落浄土へ至るための修行とされました。

やがて江戸時代に入ると、当時盛んだった弘法大師さまへの信仰が、この四国の海岸巡りの修行に結びついていきます。なぜならば、大師は讃岐国(香川)の出身で、若い頃に、四国の山中海岸、室戸岬、石鎚山などで修業をおこない、虚空蔵求聞持法の智恵を授かったとされているからです。また、多くの僧が四国にある弘法大師ゆかりの地を訪れて修行をおこなったことも、現在の遍路の基礎となりました。大師信仰の広がりとともに、僧に限らず一般庶民までもが大師さまの功徳をいただこうと、四国巡礼の旅に出るようになっていったのです。現在の札所はほとんどが、根の国信仰と補陀落信仰、そして大師さまゆかりの修行地に重なっています。

しかし、今日の四国遍路は、大師信仰とのみ結びついており、根の国、補陀落信仰への名残りはありません。 今は、すっかり大師信仰一色になっている四国巡礼ですが、そもそもの始まりは霊地を巡っての修行であったわけで、現代においても四国巡礼は、修験道の修行としての意味を持ち、さまざまな超能力を身に付けるための修行としてひじょうに有効なのです。

現代へ受け継がれる四国遍路

江戸時代に庶民による遍路が盛んになったとはいえ、四国の巡礼は難所が数多くあり、他の札所巡りに比べて格段に困難なものでした。途中で行き倒れる者も多く、そのために死に装束を身に付けて巡礼に出た、といわれています。それが、今もお遍路さんが身に付けている白衣です。

また、巡礼者に食事や宿を提供するお接待という風習が盛んにおこなわれ、現代に至るまで引き継がれています。お接待をすることによって、巡礼者から大師様の功徳をいただくことができるとされています。

四国遍路イメージ

明治期の廃仏毀釈が盛んだった頃を除けば、お遍路は一時も廃れることなく現代に受け継がれています。昭和40年代以降、観光バスなどで巡るお遍路が中心となりましたが、15、6年前からは再び徒歩のお遍路さんが増え、現在は、バイクや自転車を使ったものまで、さまざまなかたちでのお遍路がおこなわれています。 また、お遍路の目的も、弘法大師さまの功徳にあやかるというだけでなく、自分探しの旅であったり、癒しの旅であったりと多種多様となっています。

心を無にして歩き通すのもよし、いにしえの修行者を思い、霊地巡礼の旅とするもよし、純粋な信仰心から発願し、自らの功徳を積む巡礼とするもよし、皆さんもぜひ、百人百様の在り方でお遍路をされてみてはいかがでしょうか。

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